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"The World of Yoji Matsumura" by Masayuki Nishie (cultural anthropologist)

『松村要二の世界』
西江雅之(文化人類学者)

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『松村要二の世界』

西江雅之(文化人類学者)

 作品を見ていると眼が喜ぶことがある。そのときの主役は多くの場合、目の前にある色や形や動きで、それは作家に寄ってあらかじめ念入りに手を加えられたり計算されたものである。作家は見る人々に対して、自らの作品をどのように見るべきか、どこから見るべきかを要求する。さらに作家は、人々がそこから特定の意味を汲み取ることをも期待する。

 見る側はその期待に答えるために、自分が立つべき場所を求めて動きまわることになる。そしてうまく行けば、与えられた空間の中で、もっとも大きな安心感を保てる場所を見いだすことに成功するはずだ。しかし、その種の場所は松村要二という作家からは普段は最も遠い世界である。ただ、時として彼はその場所を確かめるために、平面での表現に戻っていく。

 ある物は、そのそばに自分の身を置くというだけで、何故か気持ちがホッとする。その物が五感を越えて情動に直接に訴えてくる。優しく過去の記憶を揺り起こす。そこにいる者達は、ある種の気分に浸ったり、ある種の気配を感じたりする。

 路傍で、名も知らぬ草花が小さな花をつけているのが目に止まる。雨模様の日に裏町を歩いていると、軒下に吊るされたテルテル坊主が目に入る。小さな庭に子供たちが立てた七夕祭りの笹の飾りを見る。懐かしさや和やかさが感じられる。このような気持ちになれるのは、それらの物が各自の過去体験に裏付けられている想像力をそそるからである。人々は過去の日常と分かち合っている部分をそこに感じ取るからである。それは知識にではなくて、直接的に生にかかわりを持っている。さらに、それらの物は完成されているか否かを問われることがない。

 自然や日常は素朴である。その中からどれ一つを取り出しても、それは驚嘆するほど複雑な背景に支えられているにもかかわらず、人の前では簡素である。松村要二は周辺から選んだ素材を使ってその自然を再現しようとする。言うまでもなく、それは自然を模擬した物ではなくて、自然そのものの一例を生み出そうとする試みだ。すなわち、彼は署名付きの自然の一部を出現させようと試みているのである。それも、不安、恐れ、敵意などのような人間にとっての暗い自然ではなくて、極く身近に感じられる優しさ、和やかさ、懐かしさといったものを伴った自然をである。

 松村要二の作品は人の頭脳ではなくて、人の身体のすべてに働きかけてくる。素材が竹や木切れや布などの場合は勿論だが、鉛の塊や鉄パイプのような冷たいもので作ってあっても、作品は人々に解釈や分析を要求するのではなくて、共感や期待へと誘い込む。いや、本当はむしろ周囲にいる人々の方がそうした気持ちを作品に訴えるようにと意図されているのだろう。そのことによって彼の作品は完成するのではなくて、作品として成り立つのだ。松村の作品は見るために展示されているというよりは、作品と共に人々が居るために置かれているからである。それは、ある空間と、その中で微妙に変化する時間と、そこに次々と生み出される新鮮な意味を、居合わせた人々が共有するということである。勿論、共有するのは同一の意味内容ではなくて、意味を与えたり与えられたりするという行為なのである。

 彼は「自分は作品を造っているのではなくて、作品をしているのだ」と言うことがある。作品に接する者も、そこに何が出来ているのかを確かめるのではなくて、そこで各人が何かをすべきなのである。

 きっと彼が用意する会場には、作者とそれを見る人々とが全員で“作品をする”空間が創られることだろう。空間というものは完成することがない。それゆえに自由であり、創造的である。

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